星のカービィ (アニメ)

『星のカービィ』(ほしのカービィ)は、テレビゲーム「星のカービィシリーズ」を原作とする中部日本放送製作のテレビアニメである。任天堂のゲームのテレビアニメとしては唯一TBS系列の各局で放送された。

概要

キャラクター設定や舞台設定など大部分をアニメオリジナルで仕上げ、原作であるゲーム版とは異なる独自の路線を進んだ。ゲーム版出身のキャラクターに関しても独自の設定が加えられている。

登場人物のほとんどが1 - 2頭身のキャラクターであり、劇中にバトルシーンが存在するなど、低年齢層向けのアニメに近い体裁をとっている。しかし、環境問題などの寓話的な話やシリアスな話、社会風刺や大人にしか到底わからないようなネタやパロディなども挿入している。これは、「子供でも大人でも楽しめるように」というゲーム版『星のカービィ』のコンセプトをアニメでも踏襲しているためである。

ストーリー

数万年前、邪悪なる闇の帝王ナイトメアが魔獣というモンスターを作り出し宇宙の支配を企てた。 メタナイト卿を始めとする自由と平和を求める星の戦士たちは、ナイトメアを滅ぼすため、「銀河戦士団」を結成して戦いを挑んだ。しかし無尽蔵に繰り出される魔獣の前に戦士団は崩壊。わずかに生き残った星の戦士たちは宇宙の片隅に追いやられつつもナイトメアを倒す新たな方法を探していた。一方ナイトメアは企業帝国「ホーリーナイトメア社」を設立し、組織的かつ効率的に魔獣を生み出し、宇宙各地の大から小の悪党や金を持てあます金持ちたちに魔獣を売りつけるという方法で自らの勢力を拡大させていった。

ある日ナイトメア要塞から魔獣「カービィ」が追放された。彼は魔獣として生まれながらも正義の心を持ち、ナイトメアの命令に従わなかったのだ。カービィはどこからか手に入れた宇宙船の中で眠りにつき、ナイトメアに対抗する力をつけることになった。しかしナイトメアの活動が急激に活発化したためにカービィは予定よりも200年早く目覚め、魔獣が送り込まれていて、また、星の戦士のシェルターであるカブーが存在する国、プププランドへ未熟なままでやってくることになってしまった。

カービィはプププランドに住むフームやブン達と友達になり、彼らの助けを借りながらナイトメアを打倒するために魔獣と戦うことになった。

ブルーノ・カービー

ブルーノ・カービー(Bruno Kirby、1949年4月28日-2006年8月14日)は、米国ニューヨーク市出身の映画・テレビの性格俳優。『ゴッドファーザーPARTII』(1974)や『恋人たちの予感』(1989)、『シティ・スリッカーズ』(1991)などに出演したが、2006年8月14日、ロサンゼルスにて白血病による多臓器不全により死去した。57歳であった。ベテランの性格俳優ブルース・カービーの息子であり、長きにわたって批評家の賞賛と人気を誇ってきた。

略歴

最初に注目されたのは、『ゴッドファーザーPARTII』での若き日のクレメンザ(後日のクレメンザはリチャード・S・カステラーノ)を演じてからだった。彼は、この作品で若く禁欲的なビト・コルレオーネ(ロバート・デ・ニーロ)に銃を隠してもらい、その後彼と共に敷物を盗むという印象的な役どころを演じていた。彼はコルレオーネをニューヨークのマフィア組織に誘うきっかけになる。それらのシーンはゴッドファーザー・サガの中でも最も印象的なシーンの1つである。

カービーはビリー・クリスタルと共に記憶される役者になった。『恋人たちの予感』ではクリスタルが演じたハリーの良き相談役の作家を演じた。また『シティ・スリッカーズ』では、彼は親友にキャトル・ドライブを勧める不安で神経質なスポーツ用品のセールスマンを演じている。

彼の演じた役でも認められ出したのは『グッドモーニング, ベトナム』(1987)で才気煥発のDJエイドリアン・クロナウアー(演ずるはロビン・ウィリアムズ)に対して、ユーモアを解さぬ上司、スティーヴ・ホーク少尉役からであった。

他に『ドン・サヴァティーニ』(1990)と『フェイク』(1997)では典型的なギャング役も演じた。最近でもTVドラマにレギュラー出演中であった。

文献によっては「カービイ」と表記している場合もある。

出演作品

カービー・パケット

カービー・パケット(Kirby Puckett, 1960年3月14日 - 2006年3月6日)はアメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身の元メジャーリーガー。外野手。右投右打。現役時代の身長5フィート8インチ(約173cm)、体重210ポンド(約95kg)。

来歴

1982年のドラフト会議で、1巡目(全米3位)でミネソタ・ツインズに指名され、入団。1984年メジャーデビュー。

スピードとパワーを兼ね備えた好打者で、1989年に首位打者、1994年に打点王を獲得した。1986年8月1日にはサイクルヒットを記録。1987年、1991年の世界一にも貢献。特に1991年のワールドシリーズ第6戦では延長11回にサヨナラ本塁打を打つなど活躍した。

小柄でずんぐりとした風貌と明るい性格からファンに愛される存在であり、現役時代から緑内障の予防活動や障害児支援に尽力した。オフには『セレブリティ・ビリヤード・トーナメント』を開催し、収益金を心臓病児童の基金に寄付したりするなど様々なチャリティー活動に参加した。1993年に地域活動への貢献でブランチ・リッキー賞を受賞。しかし自身も緑内障に冒されて右目を失明し、1996年シーズン前に引退を表明した。同年、ロベルト・クレメンテ賞を受賞し、1997年には自身の背番号「34」がツインズの永久欠番に指定された。

通算打率.318は、ア・リーグに所属した20世紀の右打者(4,000打数又は1,500安打以上)としては最高打率であった。

資格1年目の2001年、サンディー・コーファックス、ルー・ゲーリッグに次ぐ史上3番目の若さで殿堂入りを果たし、その後はツインズ副会長としてチームの手助けをしていた。

2002年2月に、複数の女性との浮気が発覚し、トーニャ夫人から離婚訴訟を起こされた。また同年10月には、レストランのトイレに女性を引きずりこんで胸を触ったとされ、監禁と暴行容疑で逮捕された。後に無罪となっている。

しかし、2004年には夫人に暴力をふるったなどで逮捕されるなどトラブルを抱え、それに疲れたのか2006年3月6日、心臓発作により45歳の若さでこの世を去った。

現役時代、日米野球で来日しており、日本でも知名度のある選手だった。

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